水面に落ちたひとしずく。
透き通るような凛とした響きに心を奪われたのは、思い返せば初めてその声を耳にした時だった。
記憶から失われる最初の感覚は「聴覚」なのだという。だから人は人を忘れるとき、声から忘れていく。
僕個人の感情に任せて物を言うのなら、一生忘れられそうにない声というものは確かに存在する。
もちろん科学的証拠などない。長い時が経たなければ僕自身にすら結果は分からない。それでもすがり付いていたいと思うのは、これが僕にとってある種の宗教だからなんだろう。
その人は、名前さんは、顔を合わせるたびに「大きくなって。何年生?」と尋ねてくる。年の隔たりを思い知らされて、それでも一つずつ重ねていく齢を、僕は律儀に答えていた。
「羽京くんもといよいよ就職かぁ。どうりで、私も年取るわけだ」
「やめてくださいよ。まだ同じ20代なんですから」
「もう、まだってどういうこと?……ってごめん、反応に困るよねこういうの」
黒い礼服に身を包んだ名前さんが笑うと、転がる鈴の音が更に円やかさを帯びたような、なんとも心地の良い声が耳をくすぐった。
彼女は遠縁の親戚で、お盆の時期か今日のような法事の時にしか会えない。軽口を言い合うには少しばかり遠い距離感。僕と彼女の間にはずっと、そういうものが横たわっている。
それでもその一回のチャンスをみすみす逃す理由など僕にはない。ただ、名前さんの声を聞きたい。厳かで忙しない一日の終わりに、僕はその人の背をとうとう捉えようとしていた。
日も暮れかかった人気のない寺院の裏で樹齢数百年と伝わる大木を彼女と並んで見上げる。
「好きです」
「…………えっ」
「って羽京くん言ったよね、ここで。何年前かな」
彼女の口から発せられた、4つの音。それは6年前の夏、確かに僕が彼女に伝えた言葉だった。
しかし、あろうことか年の差を理由にその告白は一刀両断にされてしまったのだ。
『だめだよ、まだ私より若いんだから。色んな人といっぱい出会ってお話して……そういう素敵な未来が、羽京くんにはあるんだから』
名前さんの柔らかな声が紡いだ、僕にとっては残酷でしかない言葉。
真綿で首を絞められるというのは、こういう心地なのだと知った。
僕の未来には名前さんがいない。そんなこと、誰が決めた。
ふっとわき上がった怒りはあっという間に萎んで、足元から長く伸びた影法師の中に溶けて消えていった。
重なることのない2つの影はまるで僕たちの関係をそのまま表しているようで、それがゆらゆらと歪んでいくのを眺めていた。
なにもかも、忘れてしまいたい。忘れてしまおうと思った。その時は。
「6年前、ですね」
「成人したばっかりの女にまだ若いのに〜とか言われても、ピンとこなかったよね」
大人になったつもりになりたかったのかもしれないと、彼女は自嘲した。
「羽京くんの方が全然……立派になって」
今とこれからの僕の立場を思い浮かべて、彼女はそう言ったのだろう。
「あの、聞いてもらえますか」
一日かけてようやく和らいできた二人の空気が、再びピンと張りつめた。
僕たちにに残された時間はあと僅かで、だけど面と向き合った彼女は、もう追いかけるだけの存在ではない。
「人が誰かを忘れる時、その人の声から忘れていくんだそうです」
彼女と会う機会は確実に減っていくだろう。今日ここに自分が来られたのも運が良かったとしか言いようがない。
進むと決めた道に迷いはないけれど。
「でも僕は……あなたの声は、名前さんの声だけは何年経とうが絶対に忘れない」
彼女が息を呑んだ音を聞き逃すはずもなかった。
揺らぐ瞳に溜まっていく涙が、地面に吸い込まれる前に。
「これが、あの時あなたが言った色んな人と出会って話した未来の、今の僕の答えです」
人は声から忘れていく。僕はそうじゃない。でも、名前さんは。
結局、僕が彼女に忘れられるのが怖かったのだ。
そうして再び、僕は6年前と同じ言葉を名前さんに告げた。
「好きです。ずっと前から、今も、これからも」
名前さんの頬を伝ったひとしずく。
僕と、その影。どちらが先に触れたのだろう。唇にあたたかな海の味を感じながら、そんなことを考えていた。
「……聞かせてくれませんか」
赦してくれるのならば、どうかその声で。
2020.4.5 ぽつり一雫
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